菅の本質

2011年07月12日 松谷祐子(三重)

なぜ、ここまで叩かれながら、菅直人は総理を辞任しないのか?
それは彼の本質が政治家ではなく、「運動家」であることに大きな原因があると思う。

政治家というものは、その立脚点が有権者からの支持である。多くの支持を得てこそ当選し、議席に座ることができるのだ。運悪く支持を失い、落選と言う憂き目にあったとしても、地道な活動を重ねて返り咲く事もできる。その際には当選回数のみが通算され、落選歴は目立たない。また、落選中であっても次の選挙を目指している場合は、「準公人」と言えよう。

よく「政治家は選挙で落ちたら只の人」などと言われるが、案外そうでもない。テレビ局から報道番組のコメンテーターを依頼されたり、ユーモアのある者なら「政界の裏話」を期待されるのか、お笑い番組からも引っ張りダコである。各種講演の講師を依頼されることもあるし、支援会社の顧問を引き受けたり、大学教授や講師という道もあろう。

要するに、政治家は何らかの権力を持つことができるので、例え落選により権力を失ったとしても、かつての権力者として、利用価値があると言う訳だ。ましてや再選を目指す者は、一時的に権力を手放しただけであって、近々の選挙で返り咲けば、直ちに再入手することが可能である。政治家は権力を持つ事に手慣れているので、その乱用の度合いも、支持離れが起こらない程度で止めるという「知恵」がある。

それに比べて市民運動家とは、自身の志や思い入れだけを引っ提げていればよいので、第三者の支持に振り回されることはない。どちらかと言えば、一般大衆が考え付かないことを訴えて運動する方が、良くも悪くも注目を集めることが出来るし、運動の成果を早急に求めない故、独り善がりでも全く問題ない。

兎角運動家とは、運動のための運動をしている場合が多々あり、実現が難しい大目標を掲げれば掲げるほど長く運動を続けることができ、その間は自分が運動のリーダーとして君臨し続けることが出来る。

要するに、ずっと「お山の大将」でいるために、次々と実現困難なテーマを掲げて、独善的な運動を行っているのである。だから、協力者がいなくても運動を続けるぐらいの「根性」は持っている。

そんな類の人間がある日、これまで無縁だった「権力」を手に入れたらどうだろう。絶対に手放すまいと必死になるに違いない。

しかも菅の場合は、以前に厚生大臣として権力を齧った覚えがあり、更に現在は総理大臣で、当に全権を手にする最高権者である。

菅の本質が政治家なら、これだけバッシングされている事実を踏まえ、ここは潔く総理の座を辞して後任者に後事を託し、「捲土重来」を目指すものである。その方が政治家としての延命が図れるからだ。

しかし彼は根っからの運動家であるが故、誰憚らず権力を乱用し、一旦馬力で何もかもやってしまおうと画策し、その実現のため権力に執着する。しかもその政策は、自身の胸中で散々温めてきた「反日思想」が基本となっているのだから、日本国民にとっては堪ったものではない。

先の代表選で菅を推した民主党議員の面々は、反小沢のみで菅を担いだ連中も含め、政治家と運動家の区別がつかない程、「政治音痴」である。三権分立すら理解出来ていない菅を総理に推すのだから・・・。

やはり民主党は、政党としての体を成していないと言えるし、所属議員の面々もまた、生粋の政治家とは言えず、労組の用務員と化した運動家崩れ若しくは、プロ市民運動家の類ばかりであろう。